『山田孝之の東京都北区赤羽』は感動ポルノか?

『山田孝之の東京都北区赤羽』
というテレビ番組を全編通してみました。

笑えるかなと思ってみていたのですが、はからずも感動しました。

ですが、ネット上のレビューを見てみると、「田舎や僻地に芸能人が滞在する番組のイヤラシサに通じる」「お人好しを利用した自己満足」という指摘がありました。

それはいわゆる「感動ポルノ」というものでしょう。(感動ポルノとは:「健常者」が「感動」するためだけに「障がい者」の存在が消費されている。長らく平然と行われているこのような扱い方を、障がいを持った方自身が「感動ポルノ」として告発しました。健常者が自己満足、つまり自慰するためだけに、障碍者がさらされているのだ、と。)

果たして『山田孝之の東京都北区赤羽』は「感動ポルノ」のなのでしょうか?

1.低評価する理由:上は上、下は下、という前提があると「感動ポルノ」になる。

不快感を示す低評価には、
「当たり前」とされている
大きな前提があるのではないでしょうか。

つまりそれは、ここにいる「お人好し」の方々
が、あくまで「下」だ、という前提です。

〇「山田孝之の東京都北区赤羽」は、欺瞞の可能性について自覚的

「赤羽は下」と前提しない
などとは、欺瞞と思われるかもしれません。

確かに、お金持ちで人気も高くて、
結局、赤羽の人にはならないのだから、
「下ではない」などとするのは欺瞞だ、
という見方があるかもしれません。

しかし、あくまで、「ありのままで生きている」という点で、作品中の山田孝之さんにとって、赤羽の人たちは確かに「上」です。

ですが、番組の中でもそれは中々理解されません。

「お前舐めてるんだろう」とたびたび山田孝之と喧嘩をするジョージさんの存在があります。

また、映像ディレクターの大根仁氏とのやり取りからも伺うことができます。

大根氏が「山田孝之がおかしくなった。早く赤羽から離れた方が良い」と心配するシーンがあります。

ここでは、原作となった清野とおるの漫画『東京都北区赤羽』の中で「変なものが伝染りそうで」
と、赤羽を後にする大根氏を描いたページのカットが差し込まれます。

大根氏は、ドラマ・映画『モテキ』をはじめとして、売れっ子を多く起用した煌びやかな世界を映像として見せる事で地位を不動のものにしています。一般世間とは明確に異なる、華やかな大通り、まさに「陽」の世界の住人なのでしょう。

「ここまで徹底して線引きすべきものなのか」とハッとしました。ひょっとすると、これは表現者にとって重要な態度なのかもしれません・・・

〇 上下の線引きが明確なビートたけしさんの世界に学ぶ

これは、ビートたけしさんの態度にハッとさせられたときと同じものででした。

安住アナと初対面の時だったか、「軽い扱い」や「からかい」に乗ることなく、あくまで敬意を持った扱いを求めていたようでした。それでいて、自身発信のボケは繰り出し、乗ってくるように促している感がありました。

これは、やはり漫才で一時代を築き、映画監督としてもチームを率いてきた、という表に現れている実績にも加え、後輩の面倒見もよく、多くの人に希望を与えてきた自負と責任によりその正当性が支えられています。実際にたけしさんを慕って来る人々のためにも軽い扱いに甘んじるべきではない、彼はその責任の重さを自覚しているのでしょう。こうした実質を伴ってこそ、威厳というものは保たれるのですね。

表面的には、初めての場所で必要な上下関係をはっきりさせる行為、いわば「マウンティング」として、誰しもがもしかしたら経験があるかもしれません。

大抵の場合、声の大きいもの、ただ攻撃的なものが当面の勝利を収める事が多くあります。ただこの場合の勝利は、後々、陰口や転覆など反旗を翻される程度の勝利に終わる事でしょう。

ここで興味深いのは、北野武さんの場合は、所謂「底辺の象徴としての浅草」にこだわる点です。そこが原点だからという事情もありますが、あえて「底辺」として位置づけ描いていることも重要なのではないでしょうか。北野さんの場合は、「変わりゆく浅草」とか「おしゃれに生まれ変わった浅草」とかはあまり描かないのではないでしょうか。

松本人志さんのコントが尼崎の悲惨な日常をベースにした詩情を描いているように(それだけに松本人志の母・秋子さんの手紙に添えられていた「尼も変わります…」という一節もじわじわ来ます)、そうでなければ表現できないもの、描けない哀愁というものがあって、それが真骨頂だとも思われます。
映画『火花』のテーマソングとして「浅草キッド」の歌詞も「煮込みしかない鯨屋で夢を語ったチューハイの 泡にはじけた 約束は ・・・ いつか売れると信じてた ・・・ 夢は捨てたと言わないで ほかに道なき2人なのに」こんな詩情は、「下から上に上がる」という確固たる世界でしか成り立ちません。

〇 「境界は乗り越えられない」「構図は逆転しない」「あくまでも、上へは昇りつめる、下には転落する、だけ」という世界観は勝者と敗者を支える強力な土台

このように人が、その位置にいるのは、自分がそう決めているから、そう打ち出して譲らないから、という部分が案外と大きいのではないでしょうか?それが大きな意味で「表現」というものなのでしょう。

もちろん、そういう「打ち出し方」をしても、周囲が認めずに、底辺に甘んじ、いじられ役になるしかない、といった場面も想像できるかもしれない。しかし、それを決して受け入れず、打ち出し続け、それだけの者であり続けようとすれば、やがて認めざるを得ない所にくるのではないでしょうか。

たとえば、狩野英孝さんもシンガーソングライターとして、自作の歌をドッキリの中で披露している内に、それらの歌でコンサートまですることにもなりました。・・まあ、ドッキリですが。(ちなみに、もともと路上ミュージシャンで、ファンが沢山いたとのことですが)でも、6股もかけられるほど、モテているわけなのは、「僕、イケメン!」という上下設定、言霊が叶っているのかもしれません。

他にも、ハッピーなネタをやっていた人は、結構ハッピーになっていて、悲惨なネタをやっていた人は、結構悲惨な状態にあるように思われるのも興味深いところです。

おそらく、「どうすれば打ち出し続けられるか」に集中して、他の「軽い」不当な扱いに付き合ってやったりしなければ、人は、自分の打ち出した者になって行くのではないでしょうか。

その中で、下の者として、従う人は、「自分は従う者」として、設定しているわけです。

こうして「上」と「下」は固定され、秩序を作り出し、それを皆で守るということは、この世界を作っている、インフラ(生活を支える土台的な仕組み)とも呼べるものなのではないでしょうか?

インフラであるかぎり、その維持が必要となって来るのです。

〇 「上下」が固定的な世界で生まれる「感動ポルノ」

インフラとして必須なので、一度確立した上下は容易には逆転しません。

その結果、「下」とされる人からの気付きを得ても「下を見て安心しているだけの自己満足」「感動ポルノ」でしかない、となってしまうのです。

「上と下は明確に決まっている」という世界に居るならば、確かに、障がい者や、いわゆる「未開」の人々、田舎の人々、、、つまり自分より「下」を見て、「勇気をもらった」「自分を改めて見つめ直すことができた」などと、「自分はこの人たちに比べれば恵まれている」とすることになってしまいます。

『ダイアログインザダーク』という、真っ暗闇の中で食事をしたり移動したり声を掛け合って達成する事を視覚障碍者の方が案内するというイベントスペースがあるのですが、ここでその典型的な例を目の当たりにしました。

光の無い世界で日々生活しているという事はどれだけ日々恐い思いをしており、また、その中で楽しく生き抜くたくましさを持っていることだろう、と感動するわけですが、ここで体験された方の中には「目が見えることがどれだけ有難いことかが分かった」という感想を述べる人が結構います。素直な感想なのだとは思いますが、視覚障碍者の方を前にして、「貴方は可愛そう、だけど私は違うので良かったです」と言うことに、抵抗は無いのだろうか・・・「感動ポルノ」はこうした無邪気な無神経さを告発するのでしょう。

しかし、この『ダイアログインザダーク』で感動をおぼえること自体は「感動ポルノ」では無いのでは?

障害のくくりとしてではなく、頼もしく、あたたかい人柄に感銘をうける。光のない世界で生きて、こうして人を楽しませる事ができるという事に、尊敬の念を禁じざるをえないからです。

つまり、あきらかにここで、視覚障碍者の人は「上」なのです。「上下は固定されている」という観念こそが、感動ポルノを生み出しています。

このように「上下」を判定すること自体が繊細な感覚の上に成り立っているため、常にこの危険はつきまといます。

2.高評価する理由:「上下」が逆転し得る世界では「感動ポルノ」は生まれない

繰り返しになりますが、重要なのでもう一度言います。この繊細さに対して『山田孝之の東京都北区赤羽』はしっかりと自覚的に向き合っています。

たとえば赤羽の飲み屋の常連さんであるジョージさんが、山田孝之を「認めない」「馬鹿にしてるんだろう」と迫るシーンが幾度かあります。それは画面の外の声を代弁するかのようです。

そして、メジャーではなくとも、たとえ笑われても、そして貧しくても、自分の表現をし続ける方も加わります。登場から既に何か異彩を放つ方でした。赤羽駅前でしばしば路上ライブを行っている、シンガーソングライターの方で、『永遠の少年』という歌を披露されます。その歌は、本当に生き様そのままのようで、本当に感動しました。その人でしかあり得ない、その人の独自の道を表現していることに、憧れと尊敬の念を抱いたのです。表現しきっているという事に、パワーと美しさを感じたのでした。YouTubeにアップされている動画には、彼に心を動かされた方の賞賛のコメントも並んでいます。

斉藤竜明『永遠の、少年』

ただ、ラストシーンでは、この方は別の活動(ご当地ヒーローのドラマ撮影)のために不参加で、これはたまたまなのか、、、この方が感動のラストを「持って行く」という形にはなっていません(それで結局は「山田孝之の自己満足」みたいに見えるのかもしれません)。ただ、もともと赤羽の人ではなくて、北海道の人みたいですからね。

ともあれ、ここにいる人たちは、全く「下」などではなく、見失っていたものを確かに力強く生きている、目指すべき「上」の人々です。

賛否両論があるのかもしれませんが、私は、この番組に出てくる人々から、自分の人生を自分らしく生きる事の素晴らしさを教えてもらったと本当に感動を覚えました。

たとえば、テイストとしては、『モヤモヤさまぁ~ず』にも似ています。この番組は見る人によっては、くだらないものとして、それこそ、お人好しを利用しているようにしか見えないかもしれませんが(そういう感想を聞いてびっくりしたことがあります。ちなみにその感想を言ってくれたのは素敵な、私も大好きな方です)、災害に遭われた人がこの番組のDVDを見る事だけが拠り所だったという話もあるように、どういう生き方でもアリなんだという事を示してくれます。それは「自分より下を見て安心する」というよりも、むしろ上、として受け取っているからこそなのです。

〇 「山田孝之の東京都北区赤羽」テーマソング「Tokyo North Side」に示されている意味

山田孝之が作品の中で作詞したという
番組のエンディングテーマ ♪Tokyo North Side
最後の歌詞はこうです。
「光を浴びる覚悟はできた さよならは言わない RED WING」
”さよならは言わない”、これは、構図の逆転を許さない、体制維持派にとっては、
田舎の人に向かって「また来るからね!」というリップサービス、つまり嘘として捉えることになるでしょう。

しかし、山田孝之さんは明らかに確かに、ただ一つの自分の道をしっかりと歩いている赤羽の人々に力を得ています。

Tokyo North Sideの歌詞は全てにストレートな意味が込められている筋の通ったものだという事が分かります。

「俺①を見ている俺②がいる それを見ている俺③もいる」

俺①はマリオネット、
俺②は苦悩して赤羽に移り住む俺、
俺③はそこで覚醒した本当の俺

その「本当の俺」に光を当ててくれ、というのだ。
「本当の俺」には、赤羽の人々と過ごさなければ出会えなかった・・・
と言っても、それは、
その赤羽の人々が「自分よりも劣る」からでは決してない。
その赤羽の人々が、「誰かのマリオネット」としてではなく、
「自分自身を生きている」からです。

ただ一つストレートで無いと感じるのは
「イエローマウスとの逃走遊戯にはもう飽きた」という歌詞。
ピーポ君?しかしピーポ君はネズミではないらしい。
「黄色いネズミ」で検索するとピカチュウがヒットしたんですが。。
まあ、ともあれ、何かしらそれまでの生活、俳優業を象徴しているのでしょう。
イエローモンキーの吉井和哉さんに曲を付けてもらうというのもあったわけですが・・。

以上のように、この歌詞は、この記事において考察したこととも一致しています。

まとめ:現実と虚構の境界

『山田孝之の東京都北区赤羽』は感動ポルノか?その答えは以下のようになります。

感動ポルノは、上下が固定された世界で成り立つものである。「山田孝之の東京都北区赤羽」で、上下は固定されていない。従って「山田孝之の東京都北区赤羽」は感動ポルノではない。感動はしても、ポルノではない。
ただし、これは見る側の捉え方に依存している。

以上です。

見る側の捉え方、について最後に説明を加えておきます。

この番組は「どこまでが現実か分からない」
「嘘くさい」という意見が多く上がっていました。

しかし、それは恐らく意図的なものでしょう。

日ごろ何を「現実」と捉えているか、
という、意外に脆い境界をかき乱すことで、
世界を新たな視点で捉えるような力
少なくとも、
世界を新たな視点で捉えるよう促す
自覚的な意思
がこの作品には感じられます。

まあ、
だとしても
「その意図が伝わらないようでは駄作だ」
という意見もごもっともですが、
分かりにくいからといって、
価値のないものとしてしまうには惜しい

この作品でしか表現しようのない境界
をあぶり出している
のではないかと思います。

その境界とは、「上下」という境界、
そして「見るものと見られるもの」
つまり「観察者と当事者」の境界です。

確かに「表現の良し悪し」というものは自ずと評価されるでしょう。

とある表現を「自己満足」と見なす場合、表現そのものの問題の他に、表現を受け取る側、見る側の固定的な価値観がその評価に影響している事の方が多いのではないか。

つまり、「俺を満足させなかった。だから自己満足だ」となるわけです。

万人受けする表現は、受け入れやすく、批判的な目を持つ人にも伝わるので、自己満とは見なされない。
片や、実験的な内容で、誰しもに伝わらないような内容の表現は、自己満とみなされることも多いのではないか。

前衛的な表現と、本当にダメな表現との違いについて引き続き考えて行きたいと思います。

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