「宗教による救い」と「宗教の危険性」

前回の記事「宗教とは何か?」では
理論的前提を記しました。

今回は、より実用的に、
宗教との向き合い方
について記しています。

ここから読まれても問題ありません。

ここでは敢えて「宗教ではない」と主張される「スピリチャル」も「宗教」として扱っています。違う部分と重なる部分とを明確にしたいからです。

漠然とした危険のイメージのままでは、
「ある部分では正しく人を救っている」
ような悪徳宗教団体
の横行を野放しにする危険もあります。

もし既に被害に遭ってしまった場合、
自分自身を恥じてしまう気持ちを持つかもしれません。

しかし、何であれ、恥の気持ちは
新たにつけこまれる弱みになります。

むしろここは認識を深める機会として、
恥を感じる必要がなくなる情報提供をして参ります。

1. 「宗教によって救われる」のは何故か?

宗教によって人が救われるのは、
世俗の価値観を超えて、
自分自身の存在意義を再定義できるからです。

たとえ社会的な尺度から言えば
ドロップアウトしたとしても、
自身の絶対的な存在意義を見出すことが
できるのが「宗教的な救い」です。

「安心立命」という言葉がありますが、
まさに、
安心し、自分の命を立たせることができるからこそ、
人は宗教によって救われるのです。

以下に詳しく見てみましょう。

具体的な道としては、
個人的な気づきを根幹とする場合と、
集団や特定の人物への心酔・帰依
を根幹とする場合とに2種類に分かれます。

1-1. 個人的な気付き・確信を根幹とする救い

個人的な気付き・確信を得た場合、
いわゆる「目覚め」「悟り」がもたらされ、
世俗の苦しみから解放されることで、
悩みごとから救われます。

典型的なものに、仏教やヴェーダ哲学、
それらを淵源に持つ、ニューエイジの教えのように、
神人合一や梵我一如といった真理を説く、
一連の思想があります。

これらは究極的な「真理」や「神」を立てない場合も多く、
「宗教ではない」と主張されることも多い
傾向にあります。

この種の教義は
「世俗的な価値に対して別の真理を立てる」
のではありません。

むしろ「世俗的な価値」を、
一種の「囚われ」「妄念」として無効化するのです。

「世俗的価値」が絶対的なものではなく、
相対化されることにより個人は救われます。

とはいえ、
仏教は宗教法人の場合がほとんどですし、
「絶対的な真理は無いという真理」
といった特殊な構図に固執している場合には、
やはり傍から見れば「宗教」という事になるでしょう。

1-2. 集団、物、教祖など自分以外の何かへの帰依を根幹とする救い

これらとは正反対に、
「宗教によって救われる」と言った場合、

一般的には、
何らかの宗教団体に所属することによって、
自分の存在意義を見出し、
安心と生きる意味を見つける、
というものになるでしょう。

これが自分以外の何か(集団的価値)を信じ服従する(帰依する)ことによる救い、です。

自分以外の何か特定の集団的価値や特定の人物、
特定の物のパワーを強く信じられた時に、
自分の存在意義を再定義する心理が見られます。

特に、教祖(グル)に心酔し従うことで、
自分自身の不安をぬぐい去ることができ、
救われます。

そういう意味では、
スターやアイドルの熱狂的なファンになる事によって、
生きる喜びと意味を得て救われるという現象も、
一種「宗教的な救い」とも呼べます。

特定の超常的教義を説くような宗教団体の教祖ではなく、
有名人に心酔する場合には、
ダメージはありませんし、
一般には「宗教」とは呼ばれないでしょう。

ただし救われる構造としては同じです。

「占い師や霊能者に洗脳される」
といった事態も定期的に起こっています。
これは、
そのような霊媒師・霊能者・占い師、
などの人物を信じていると同時に、
「霊」や「占いで見ることのできる運命」
といった集団的価値を信じているために
起こる「救い」であり「危険」です。

慈善活動などを行うような
温かい集団に帰属することで、
自他を幸せに救って行くことのできるケースもあります。

しかし、その「何か」
が導く方向に誤りがある場合は、
自他に対して致命的なダメージをもたらす
ケースも決してめずらしくはありません。

判断をその「何か」
にゆだね切ってしまっている所に
「救われている」からです。

ここでの「救い」はあくまで主観的なもので、客観性はありません。また、宗教団体に巻き込まれてしまった場合、「救われた」と思ったのは最初だけで、入信中は相互監視や暴力などでむしろ疲弊する場合も多いようです。これには、個人の心に巣食っている不幸のパターンを、精神療法により取り除く必要があるのですが、注意が必要なのは、それすら「宗教」に悪用される点です(心の傷に対して自分で出来るアプローチをこのブログでは提供していきたいと思っています)。

2. 救いの共通性と危険性

以上のように、宗教により人が救われるのは、
「それまでの価値基準を超えた価値を見出す事によって救われるから」です。

つまり、本質的に、社会(世俗)と隔絶
している点に救いがあるのですから、
宗教で救われた場合、

「反社会的」

とまではいかなくとも
必然的に

「非社会的(社会的ではない)」

社会(世俗)から離れた価値観に救われるということになります。

(スピリチャルに目覚めた場合も、「あっちのほうにいっちゃった」と言われるようなことも多々あります。この状況を変えていきたいと考えています)

もちろん、
現世利益を神頼みするといった、
世間的にも広く認められている「救い」
もありますし、

本当に人を救っているような
宗教家・スピリチャリストのような方
がアドバイスする内容は、

結局は社会的な常識です。

クレームや世間からのバッシング
を慎重に避けている、
という穿った見方もできますが、

ともあれ、非常識を説く時点で
警戒する方が、基本的には賢明です。

ですから、
よほど追い詰められていない限りは、
このあたりで満足しておく方が良いのかもしれません。

ただ、個人的には、一時的であっても、たとえ非常識であっても、気休めや夢をみることによって回復してから、「常識」に立ち戻り、折り合いをつけるという段階を踏んだ方が良いと考えます。

2-1. 危険へ通じる要素

個人的な気付きにより救われる場合も、
集団への帰属による救いも、

すべて自分のコントロール
(我・エゴ)を投げ出して、
あるがまま

に従うことによって安寧を得る、
という点で言えば同じです。

これらは、
本来、自分の利益(エゴ・我)
に固執することなく、

利他の精神を持つことが、同時に、
自分の利益(ご利益)になるという、
精神性の向上を意味します。

ですから、他の人の存在を大切にするという意味での
常識に反して、
無理を通そうとすれば、
当然、泥沼にはまり込むことも多いため、
身近な他者など、
状況にゆだねる
ということも普遍的なコツです。

ですが、
問題は、これは同時に、
悪徳教祖
への絶対服従的帰依
による
洗脳
と見分けが付きづらい点です。

ここには暴力的支配や金銭的支配
そして検証のしようのない概念
による心理的支配が伴っているか、

つまり、自立・自律のバランスが崩れていないか、

が明確なポイントになりますが、これは次に詳しく解説します。

3. 「宗教は危険」と言われるのは何故か

「宗教は危険」と考えられる理由は、コントロールの及ばない次元を含み、コントロールを手放す所に救いもあるからです。

しかし、危険と救いは、必ずしも区別の目安の無いものではありません。

さらに分析してみると、次の2つに大きく分かれるでしょう。

1つ目は、閉鎖性に関連する点。
2つ目は、人間に計り知れない領域に関する信仰が関連する点です

そして、結局の所、金銭を中心に、誰かに利益が集中しているか否か、が危険の目安です。

3-1. 「非知」「超常」のような「科学で説明できない」次元を利用するので危険

宗教が危険な理由のもっとも大きな特徴は、
人間の認知能力の及ばない次元を語る点です。

たとえば、
「守護霊」「神」「前世」といった次元は、
少なくとも現代の科学では、
その真偽を確かめようがありません。

状況証拠からその信ぴょう性
を確かめているような研究もありますが、
それらさえも、
究極的には「信じるしかない」
という
信仰の問題になります。

仮に「前世」「霊」などが事実だとして、
だから、
「あなたは不幸なのです」
「反省しなさい」
「救われたければ、これを買わなければ」
などと人の心を支配し、利益を得ようとするのは詐欺です。(「前世のカルマ」について気がかりのある方は、関連記事:「前世のカルマ」を浄化するには?をご覧ください。)

以上のように、自分で判断することのできない次元を持ち出された際には危険を察知した方が良いでしょう。

3-2. 「団体」「教会」のような、人間の閉鎖的組織が危険

閉鎖的な集団では、
リンチが横行しやすいことが知られています。

そしてそれは正当化され、隠蔽されます。

その意味で言えば、
狭い意味での宗教団体に限りません。

例えば、
認め難いかもしれませんが、
人種差別や家柄などの出身差別、
学校や学歴などの
閉鎖的な集団内
でも起こる現象と言えるでしょう。

実はそこに
信仰が絡んでいる点でも同じです。

明確に分かりやすく
「神」を信仰していなくとも、

たとえば
学校などの閉鎖的集団内では、
学歴信仰、あるいは学歴神話
ともいう言葉もあるように、

学校に行くことが絶対的な価値
とされがちであるからこそ、
危険な事態は起こるのです。

ここで注意すべきなのは、
集団内のすべての人々が価値を認め「ているのではない」です。

同好の士が集まっているのではなく、
同調圧力によって義務的に集まっている
という点がポイントです。

人々はそこで、
ただ「皆がそうだから」とだけで「力」を得ています。

「皆がそうしているから」
とだけ判断の基準にする人間は、

その判断に自分自身の責任を感じず、
「あいつもそうだから」と責任転嫁するのです。

力を持ちながら、力の責任を持たない。
卑しい戦略です。

自分自身で責任をもって、
その価値を選んでいるのではなく、

集団からその価値を押し付けられているのです。

結果、その価値を、他者に押し付けるに至ります。

学歴信仰なら、
努力の証という意味で自ら選んでいる価値だとも言えるでしょう。ただ、それならば、他の領域での努力をも認めてもおかしくありません。自分自身でこの価値を根拠を持って選び取っていない場合(「皆が良いと言っているから」とだけならば)、それは中身のない虚栄心です。ただ単に「学歴が無いから価値がない」と考えるだけなのです。

人種などの努力のしようのないものはこの閉鎖的集団的宗教の最たるものです。

ニーチェは人種差別も嫌悪していましたが、キリスト教も嫌悪したことで有名です。その嫌悪の矛先は、イエス=キリスト自身よりも、教会組織に向けられたものでした。教会組織は当時、強大な権力を持っていました。彼らは、価値を自身の力で生み出しておらず、自身の価値として選び取った責任を体現していない卑しい根性の持ち主だとニーチェは見抜きました。個人で果たすことのできない権力欲をキリスト教的価値転倒を盾に(ニーチェから見れば不当に)満たそうとしていたと言うのです。

このように、閉鎖的集団は、
個人の判断力を放棄させ、
個人では為し得ない行為に発展する恐れがあります。

それが良き事であれば偉大な事を為し得るのですが、
それぞれが判断を放棄しているため、
悪しき事であるという判断がつかない点が問題です。

ただし繰り返しになりますが、
厄介なのは、仏教などでも、
「個人の判断力」とは、
「我が強く煩悩のなせるわざ」とされ、
放棄すべきものとされる点です。

この放棄が、結局の所、組織や教祖の利益に結び付いている場合は悪徳宗教です。

しかし、判断の放棄により物事の実相が見えてくるならば、それは個人の目覚めによる宗教的救いです。

あくまでここでも、閉鎖的組織によって、自身の判断が奪われていないか、に注意が必要ということが分かります。

4. では、宗教なしで済ませられるか?

今回、「宗教」を広い意味で捉えているので、
宗教なしで済ませることはかなり困難です。

むしろここで提案するのは、
どのような場合に宗教が要請される傾向にあるのか、
知っておくことです。

基本的には、
宗教は無しにして、
科学的態度で進んだ方が良さそうです。

ただし、以下に上げる点、
つまり「科学の限界点」においては、
宗教が顔を出さざるを得ないことを知っておくべきでしょう。

4-1. 「科学の限界点」を知ることで、宗教への免疫力をつける

科学は
検証できる事象以外は語ることができないため、
必然的に限界が設けられます。

その限界点には実は、宗教の問題があります。

ここでもまた、
個別に論理的な次元と、
集団性、つまり人と人の関係性に関わる次元
との2種類の要素があります。

4-1-1. 科学の限界点で見えてくる宗教①――論理編

1つ目の個別的な次元として、
科学の限界点に宗教が問題となってくるのは、
純粋に論理的な限界点に関わる問題だからです。

たとえば、科学者の中でもその解釈をめぐっては未だコンセンサスのない、量子力学というミクロの世界を扱う物理学の分野があります。

この量子力学が含意するところが
古来一部宗教が説いてきた
「この世界は私たちが作り出している」
といった類の教えと一致することがしばしば指摘されます。

また、宇宙の起源や、宇宙を構成する物質(ダークマター)についても未だ多くの謎があります。

これらは、更に細分化して行けば、正体が物理的に突き止められるという科学者がほとんどですが、中には、すでにある意味「神」と呼ぶべきものがあるという直感をもつ科学者もいます。

こうした核心に触れた深遠な謎に
拡大解釈や似非科学による霊感商法
が忍び込んでいないかは、
注意深く検討する必要があるでしょう。

4-1-2. 科学の限界点で見えてくる宗教②――倫理編

2つ目の集団的関係性に関わる次元では
「技術的に可能でも果たして倫理的に正しいのか?」
といった問題が挙げられます。

たとえば、生命にかかわるものなど、
信仰・宗教心を抜きには語れない次元に触れています。

生命など非知にかかわる場合、
結局の所、歯止めとなるものは、
素朴な宗教心でしかありません。
(それは既成宗教によって教え込まれた観念である場合もあれば、生命など自然現象への素朴な畏怖心である場合も含みます。「人を殺してはいけない」と思うのは、「地獄に落ちるかも」という民間信仰が歯止めになっているからだ、という面は否定できません)

法に触れなければ良い。
と日常的なレベルでは思っておけば足りますが、

新しい事態、
目の前の事態に対処するため
には法には頼れません。

また、新しく法律をつくるのも人間だからです。

4-2. 科学者のもつ信仰の可能性と注意点

以上のような意味で
科学者もまた信仰をもつケースもあります。

というかそれが優れた科学者の姿であるとも考えられます。

何故なら、論理的な限界点に宗教性を想定し得る可能性を見ない科学者は、訓練により作り上げられますが、優れた直観力をそなえた科学者はそれ以上だからです。
また、倫理的な信仰を持たない科学者は、浅はかな環境破壊・生命破壊に突き進むからです。

ただ、
科学者が宗教を信仰するという上でも、
個人的な気付きを根幹としている場合もあれば、
集団に所属することがもたらす安心感を根幹としている場合もあります。

そして、
上述した閉鎖性や金銭の詐取という点には、
最大限の注意が必要でしょう。

こうした危険を回避するためには、
「精神性の向上」
という本来の意味での「宗教による救い」がやはり最も重要となってくるでしょう

5. まとめ

「宗教による救い」について以下の2点にまとめました。

①世俗の価値を超えた価値で自分を再定義できるから救われる。
②苦悩を手放して集団的価値の中で安穏に生きられるから救われる。

これらはいずれも「精神性の向上」を意味しています。

ところで、これによって、また正反対の「宗教の危険性」も生まれます。しかし全く同じではなく、危険を誘発する要素を、次の2点に絞ることができます。

❶閉鎖的な集団により暴力が正当化される危険がある。
❷検証不能の次元により支配コントロール、洗脳される危険がある。

これらは、すべて元々は金銭など欲得がらみです。従って、閉鎖性と金銭面に気を付けておけば、比較的、危険性は回避できるでしょう。

危険な要素を把握しておくことにより、
ご自身の判断を保ちながら、
世俗の価値に振り回されることなく、
精神性の向上を深め、
より意義深い自身の人生を歩むこともできるのではないでしょうか。

・・・・・

メールで更新通知を受け取る

メールアドレスを記入して登録ボタンを押せば、新規投稿時にメールでお知らせします。
(無料です)

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする